とある芸術大学の相談室で(3)
🕑 Added 2022-12-26 08:11:07 +0000 UTC
手は、自然と鉛筆を選んでいた。4B。
持ち方も、字を書く時とは違う。
わたしは慣れていなくても、この身体はすべきことをちゃんと覚えていた。何年も、十年以上も、もしかしたら生まれた直後から二十年近くも、絵を描いてきたのだろうから。
部屋を見回して、わたしは『わたし』をスケッチすることにした。
一方の彼――『わたし』の身体の阿賀海くんは、バイオリンを取り出して構えている。表情はぎこちなく、しかし取り扱う手つきは滑らかに。
「い、行くぞ」
「ええ。わたしは描いてみる」
こうして、本来なら満足にできないはずの、今の身体に合わせた試みが始まった。
絵を描くというのは、中学の美術の時間以来だ(高校では音楽との選択制だった)。
だけど今までだったら。わたしの見たもの、描き留めたいもの、それを『わたし』の手はうまく紙の中に写し取ることができなかった。
なのに今、わたしの手はスムーズに動き、目の前でバイオリンを奏でる女性を的確に形にしていた。
絵が封じ込めるのは一瞬の姿だ。だけど、描いているわたしにとっても不思議なのだが、スケッチの中の『わたし』からは奏でるバイオリンの旋律が流れてくるようだった。漫画のコマのように動きを示す線などを周囲に書き込んでいるわけでもないのに。
自分でも不可思議で、わたしはスケッチを繰り返していく。描くたびに、描き方を理解していく。
そのうち、紙一枚で描ききれなくなった。次の一枚を破り取ってつなげ、心の赴くままに大きく描いていく。
気がつけば、スケッチブックを使いきっていた。
そして、『わたし』も演奏をやめてわたしを見つめている。
「ど、どうだった?」
訊かれて、わたしは彼の演奏をろくに聴いていなかったことに気づいてしまった。
こんなの、ありえない。
わたし、絵に気を取られて、音楽が頭から抜け落ちていた。
「ごめんなさい……」
「いや、謝ることない」
頭を下げたわたしを、彼は止めた。
「俺も、あんたの絵を気にしてなかった。絵のことを忘れて音楽に……自分の演奏にのめり込んでいた」
それはたぶん、わたしと同じように本来の『彼』ならありえないことだったんだろう。
「まあ、絵が残る絵描きと違って、演奏家は演奏中に聞いてもらわないと話にならないから……改めて、聞いてくれないか?」
「はい」
わたしはスケッチブックを閉じると、彼に向き直った。
彼は演奏を再び始める。
その演奏は、『わたし』の演奏とよく似ていた。たぶんわたしのさっきのスケッチが、『彼』のスケッチと似ているように。
なので、演奏技術的には問題ない。ポイントはその技術でどう演奏するかだが……
彼はわたしと違い、楽譜にしっかり沿うように演奏してみせた。
「丁寧な演奏ね」
一曲終わると、わたしは拍手しながら言った。すると彼は首を振る。
「そんなこと言えるレベルじゃない。本当なら、一音一音をもっと正確に楽譜の通りに弾いてみたい。ただ、それをやるにはまだ技術が足りてないみたいだ」
絵について話す時と同じようなことを言う。
まあ、それはわたしも同じか。スケッチブックという枠を無視して、紙を貼って、もっと大きな絵を描いた。
「お互い、問題はないみたいだな」
わたしの描いたそれらのスケッチを眺めながら、彼が言った。
「なら……一週間はどうにかなりそうね」
「ああ。じゃあまた、一週間後に会うとするか」
「ええ」
自分でも驚くほど淡白に、わたしたちは新たな生活へと踏み出すことができた。
*
そして六日目の晩、わたしは『わたし』の部屋を訪れた。
「どうしたの? 会うのは明日のはずだったのに」
寛いだ様子だった『わたし』が出迎えてくれて、中に入る。部屋の匂いが、早くも他人の家と感じさせた。
「確認をしたくって」
一呼吸おいて、切り出す。
「明日、元に戻りたいと思ってる?」
すると彼は、困ったように唇を小さく歪めてわたしを見た。
「たぶん、そっちと同感」
二十年近く、バイオリンのために生きてきた。
けどそれは、いつしかバイオリン以外の選択肢がなくなっていた――なくなっていると思い込んでいた――からだと、こうなってわたしは悟った。
普通なら、何かの事情で道を断たれてから、否応なしにそれを認識させられる。そして苦痛と共に道が断たれたことを嫌でも受け入れて、別の選択肢もあることに気づいて、新たな人生を探し始める。
でもわたしは、わたしたちは、入れ替わりなんて事態によって、自分が打ち込んできたもの以外の進路に進むことができるようになってしまった。
そうなった今、わたしは、元のルートに進む意義を強く感じられなくなってしまっていた。
演奏者は楽譜を通じて作曲家の意図を汲み取り、共演する奏者や指揮者と力を合わせて数分間の演奏を実現させる。なのにわたしはその楽譜を素直に読めなくなっていた。楽譜の指定を窮屈に感じ、自分の感性を優先させて、その解釈を周囲に打ち出していた。あれは一種の泥沼だった。
それに比べれば、絵には自由があるように思う。絵の大きさも、何で描くかもどう描くかも、すべてわたし一人が好きに決められる。
わたしがそんなことを話すと、彼は言った。
「俺は、楽譜という規定がむしろ性に合った」
「うん、そんな気はしていた」
「時間制限がある、周囲に人がいる共同作業ってのも、俺には向いてるのかもな。完璧さの追及よりは、ハーモニーを作ることが必要とされる」
「じゃあ……」
「少なくとも、今元に戻りたいとは思わない」
「だよね。隣の芝生は青いってやつかもしれないけど」
いずれは絵を描くことによる苦しみや悩みも深刻になるのかもしれない。けど、わたしはこの新たな選択肢に今のところは夢中だった。
「その確認だけ? それなら明日会った時に言えばよかったのに」
彼が軽く頬を膨らませる。『彼』なら絶対やらないはずの仕草で、『わたし』もあまりしたことのない仕草。でも、『わたし』の身体で彼がそれをすると、不思議に似合って見えた。
身体や生活への順応が起きているのだろうか。わたしもどこか男っぽくなっている気はする。
「……人前じゃ訊きづらいことだから、部屋に来たの」
わたしは自分の股間を指し示した。
「性的なこと、絵を描くことやあなたらしく振る舞うことほどうまくできなくて……教えて欲しいし、あなたも苦労してるなら教えてあげられればと思って」