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海専山専 ●闇夜の山●
🕑 Added 2018-05-09 23:40:58 +0000 UTC 四月に入ったとはいえ、まだ夜は肌寒い。 「はーあ」 テーブルに顎を載せて、俺はストーブの灯油が空になったら買い足そうかどうかで悩んでいた。 半端な時期だ、もし買い足してもすぐに暑くなるかもしれない。 いやいや、逆に買い足さなかったとして、まだしばらく寒さが続くとしたらどうだ? 財布を見て、壁掛けの温度計を見て、部屋の隅で赤々と火をゆらめかせるストーブを見て、俺は腕組みをした。 「うーん…」 その三つをせわしなく見比べる俺の目に、ちらりとテレビの上の置き時計が映る。 時刻は午後8時。 「遅いな…」 いつもならもう帰ってくる頃なのに、どうしたんだろうと俺は思った。 山ニイの奴。 まさか天狗山の裏の温泉で一杯やってるんじゃあないだろうな。 「たく…晩飯先に食っちまうぞ」 財布の口を閉じると、俺はそれをテーブルの上に置いた。 ラップを取ってこなくちゃあいけない。 「…ったく。」 俺は唇を尖らせた。動くたびにセーターの隙間から冷たい空気が入り込んだ。 山ニイが帰ってきたのは、俺が料理にラップをかけてから三十分後。 丁度テレビの歌番組で、興味の無い歌手が歌いだした直後だった。 「おおーい、帰ったぞぉー」 「帰ったぞじゃねえよ、ったく」 玄関に響く大声に、俺は渋い顔で椅子から立ち上がった。 映りの悪いテレビを消して玄関に向かう。 「遅いッ」 「玄、行くぞっ」 「はあ?」 帰ってすぐ行くのか? …行く? 俺は山ニイの言葉が理解できず、呆けたような顔をした。 見ると山ニイは満面の笑みを浮かべている。 猟銃と山菜の詰まった籠を玄関口に置くと、ぐいと俺の手をつかんで引っ張った。 「行くって、どこにだよ」 「へっへえ、ええから来い、来い」 「来いって…」 まったく意味がわからないものの、俺は経験上『こういう時』の山ニイには何を言っても無駄だってことを知っていた。 ちょっと待てよと山ニイに言い残し、一旦部屋に戻る。 ハンガーにかけておいたジャンパーをおろすと、俺はそれを袖を通さずに羽織った。 外に『出る』なら、セーターだけじゃあ心許無い。 「どこに行くんだよ」 「へっへえ」 俺の問いには答えず、山ニイはただ笑うばかりだった。 空にはピンボケ写真のような朧月。 闇の中、俺たちの足元を照らす懐中電灯。その頼りない灯りで、浮かび上がる山ニイの広い背中。 「山ニイ、寒くねえか」 「平気じゃあ」 なだらかな傾斜が続く。その坂を登りながら、俺は夜の匂いに鼻をひくつかせた。 湿った空気の匂い、伸びだした新緑の匂い、ぬかるんだ土の匂い。この山を包み込む夜。 俺たちの足音と、時折思い出したように聴こえる鳥の声。 一人ならきっと恐怖するだろう夜の闇に、俺はなぜだか安堵していた。 それはきっと前を歩く山ニイの背中がすごく広くて、大きくて、逞しいからなんだろう。 「まだかぁ?」 「もうすぐじゃあ」 山ニイが見せたいものとはなんだろうと考えながら、俺はじわりと額に浮かんだ汗を拭った。 暑い。 羽織っていたジャンパーがずり落ちそうになる。 「ああ、くそ」 俺は呟いて、ジャンパーを脱ぐと腰に巻きつけた。 夜気がスウ、と汗をかいた首もとを撫でる。その冷たさが気持ちよかった。 「はぁ」 「おお、そろそろじゃあ。玄、灯りさ消せ」 「そんなことしたら真っ暗になっちまうぞ」 「平気じゃあ、道はわかっとる。へへ、おめえを驚かしてやりてえでな」 「驚く?」 まったくわけがわからなかったが、俺は懐中電灯のスイッチを落とした。 すう。 途端にあたりを侵蝕する闇。 目の前に見えていた山ニイの背中が消え失せて、俺の中に恐怖が生まれる。 「山ニイ」 「おう、こっちじゃあ」 「あ」 伸ばした俺の指が山ニイの指に触れる。しっかりと掴んだその手を、俺は放さないようにして歩いた。 山ニイの後をひたすら俺は追いかける。灯りを消して十分くらいだろうか。 実際は二、三分かもしれないが、何も見えない暗闇の中流れる時間は俺には長く長く感じられた。 手のひらに伝わる山ニイの体温だけが、今の俺には道標だ。 「玄、目ぇさ閉じてろ」 立ち止まった山ニイはそう言うと、俺の両まぶたを手のひらで覆った。山ニイには見えているのか。 汗ばんだ山ニイの手のひら。言われた通りに俺は目を閉じる。 真の暗闇が俺の両目に舞い降りた。 微かな色も、草木の輪郭も、ぼやけた月もすべてが消え失せる。 心臓の鼓動がやけにうるさく感じた。 目を瞑って、一歩、二歩、三歩。くるりと回って。 「…まだ、かぁ…?」 「…おぉ、丁度ええ具合に…月が…」 「…なんだよ…」 山ニイの忍び笑いが聴こえる。 まぶたから手のひらが離れた。 「もうええぞぉ」 その声を合図に、俺はゆっくり目を開けた。 「…あ…!」 漆黒に。 漆黒に降る雪。いや 雪のような、桜の花嵐。 山の中、木々が作る迷路の奥底に広がる草原に、玉座に座るようにして生えていたその桜の古木は、満開の花を惜しげもなくハラハラと降らせていた。 薄雲がかかっていた空はいつの間にか晴れ上がり、シャープな月が円く輝く。 月光に照らされて、花びらは踊っていた。 「…これ、は…」 「綺麗じゃろ」 山ニイの手が俺の肩を抱く。俺たちは並んでその、幻想的な景色に目を奪われた。 「猟の帰りに見つけてなあ、おめえに真っ先に見せたくなったんだぁ」 「山ニイ」 「綺麗じゃろ」 二度目のそのセリフに、俺は頷いた。 山ニイが優しく笑う。 「明日は海彦もホムラも、神主殿も誘って来るか」 「…そう、だな」 山ニイは俺より頭一つ大きい。俺の目線に山ニイの肩がある。 その肩にはらりと乗った桜の花びらを、俺は指でつまみあげた。 「…」 淡い色合いのハート型。それを俺は口に含むと舌の上に貼り付けた。 「玄」 べえ、と舌を伸ばして山ニイにそれを見せる。 鼻で笑って、俺はくちづけた。 「ん…」 俺は背伸びをして、山ニイは少しかがんで、俺たちは唇を合わせる。 舌から舌へと、花びらは転がった。 「ンん…」 瞑っていた目を少しだけ開ける。 花びらは舞い続けている。 重厚な夜に彩りを添えて、歌うように囁くように。 ごくり、と山ニイの咽喉が鳴った。 「…飲んじまったぁ」 「山ニイ」 「…へへぇ」 ぎゅう、と山ニイに抱きしめられ、俺はいま少し寒いんだ、と思い出した。 山ニイの体温が伝わる。 …やっぱり、寒くない。 「…愛しとるぞ」 一日に最低一回は聞いている愛の言葉。 「…毎日言って、飽きねえか」 「おめえはもう聞き飽きちまったか」 「…いいや」 尋ね返され、俺は首を横に振った。 「あと百万回言われたって、聞き飽きねえよ」 夜桜が舞っている。 俺たちはキスをする。 きっと、これからもずっと。 text:旋牙闇霧 ------------------------------------------------------------- こちらも同じくコンプ特典で公開していた短編。